【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「集合的サイコパスについて完全考察」
今まで、さんざん、2期の「集合的サイコパス」について、考察していきました。
今回は、これまで長々と書いてきた考察を短くまとめていこうと思います。
第一弾では「なぜ東金美沙子は執行されたのか」について考察するしました。
それによって、より大きな集合に対して影響を及ぼす集合を排除することができるのが「集合的サイコパス」による執行は行われると考えました。
第二弾では、「個人としてクリアでも、集団としてクリアではない可能性」について考察しました。
そして、そこから思想を共有する集団は、個人よりも社会に与える影響が急激に大きくなるため、クリアではない可能性があるということを考えていきました。
第三弾では、「ドミネーターを向けた人によってシビュラの色相が変わる理由」について考察しました。
そこから、集合とは思想を共有している存在しかない。そして、それによって集合の元はさまざまに入れ替わることがわかります。
ということで、ぜひ、一つ一つを確認してみてください!!
コメントなんかもしてもらえると嬉しいです。
【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「集合的サイコパスによってシビュラが執行されてしまう可能性とは」
今回は、「集合的サイコパス」考察第三弾ということで、2期の中で最も意味が分からなかった 「ドミネーター向ける人によってシビュラの犯罪係数が変わる」という、やや不可思議な現象をについて考察していこうと思います。
最初に言っておきますが、いつも結構ご都合主義な考察ですが、今回は特に手がかりが少ないだけに、いつも以上にひどいです。「へぇ~」と聞き流すように読んでいただけたら幸いです(^^;)
では、さっそく問題の部分を見ていきましょう!
いや~、いつ見てもゾクッとくるようなしびれるシーンですね。
ですが、僕は思いました。
なぜ「ドミネーターを向けた人もまたシビュラの一部になるのか」
なぜ、「本当の裁き手が現れたら、あそこにいる脳が最後の一つになるまで犯罪係数は下がらないのか」
だって、ドミネーターはあくまで機械でしょ!?
犯罪係数を測定するのは、シビュラシステムじゃないの!?
なんで、そんなにころころ犯罪係数が変わっちゃうのさ!!
しかし、今までの記事で、集合的サイコパスとは、「より大きな集合に対して、悪影響を及ぼす集合を排除するための基準」だと考察してきました。
これは、せめて僕の記事の中では貫徹させたい!!
ということで、今回は、集合の定義 を見直そうと思います。
そもそも集合とは
いままで、なんとなく集合、集合と言ってきましたが、集合って何なんでしょう。
集合は「ものの集まり」である。一方で、どんな「集まり」でも集合と呼んでよいわけではない。その「集まり」が集合と呼ばれるためには、対象が「その集まりの元であるかどうかが不確定要素なしに一意に決定できる」ように定義されていなければならない。(Wikipedia より)
というのが、数学上の集合の定義です。
ようは、集合の要素をはっきり定められるような定義が必要なのです。
シビュラの定義とは
では、本題です。
シビュラって何でしょう。
免罪体質の集まりでしょうか。
だとすると、槙島みたいな人が数人集まってしまえばシビュラシステムになってしまいます。それは困る...
サイマティックスキャンによって計測した生体力場から市民の精神状態を科学的に分析し、そこから得られるデータをサイコパスとして数値化したあと、導かれた深層心理から職業適性や欲求実現のための手段などを提供する、包括的生涯福祉支援システム。(Wikiより)
だとすると、サイマティックスキャンを分析できる存在?
それだと、これまでと同じなのでドミネーターを持っている人は関係ありません。
もっと根本的で、シビュラの存在理由そのものとは、
それは、「最大多数に最大幸福をもたらすために、公平公正に人や集団を評価できる集合体」と定義するより他にありません。
あくまで、ドミネーターはサイマティックスキャンを測るための道具に他ならないし、サイマティックスキャンのデータさえも人を判断するための材料に過ぎません!!
評価できる集合体はシビュラなのです!!
いや、まったくもって意味が分からん!! という意見もわかります。
というか、僕が一番そう思っています。
ですが、このように定義する理由が一応は説明できるのです。
もう少しだけ、読み進めてください!!
理由その1:今回の一番の問題点が解決する。
今回のテーマで一番問題になっていたのは、なぜドミネーターを向けた人もシビュラの集合の一部になるのかという点でした。
なので、これを解決するためには、どうしてもシビュラの定義を拡張してその人もまたシビュラの一員であるようにしなければなりませんでした。
なので、このようにシビュラを「社会のために、公平公正に物事を評価できる集合体」と定義することで、ドミネーターを持つ人もシビュラの一員であると考えることができます。
なぜなら、ドミネーターを持つような人は、そもそもシビュラに「正義」のために行動できると認められている人なのですから、免罪体質でなくても多くの一般市民のためを思ってあらゆることを評価できるでしょう。
また、2期のラストで朱ちゃんは禾生局長にシビュラの一員にならないかと誘われています。(まぁ、シビュラも本気で誘ったわけではないでしょうが)
つまり、シビュラの構成員であるために免罪体質であることは必要条件かもしれないが、十分条件ではないかもしれないということです。
なので、シビュラという集合の十分条件として、いかなるときも公平公正に評価ができることと考えるのはあながち間違いではないかもしれません。
だから、それが都合が良すぎないかって言ってるんだよ!!
はい、ということで、理由2を説明したいと思います。
理由その2:あらゆる集合の定義を踏まえた上でシビュラを定義できている
今回シビュラを定義しなおすにあたって、定義が拡張される理由は、絶対に「集合的サイコパス」に求めなければいけない。
とすると、この場合だけに例外的に成立するような定義をすることこそ問題になってしまう。
なので、そもそも集合はどう定義すればいいかを定義します。
もっとも簡単で分かりやすい定義の仕方は、見た目や身体的特徴などで定義することでしょう。
例えば、シビュラでいうなら、脳だけの存在であるとか、並列に脳がユニット化されて処理能力を拡大させた存在とするのがわかりやすいし、確実です。
本来は、入れたくもないドミネーターを向けるような人物を確実に取り除くことができます。
ですが、こんな風に見た目の特徴で、集合が定義できる例は、シビュラくらいです。
もし集合を常に見た目の特徴で定義しようとするとほぼほぼ不可能です。
例えば、日本人ってどういう人の集合でしょうか。
髪が黒くて、顔が平らで身長がそこまで高くないとか?
日本語を母語にしているとか?
いやいや、他にもいるでしょう。大坂なおみさんなんかは、身体的特徴は違えど立派な日本人です。
他にも、キリスト教徒ってどんな人の集合でしょうか。
欧米人の身体的特徴を常に持っているとは限りません。アジア人でもキリスト教徒の人はいます。
ということで、集合を見た目で定義づけることは不可能なのです。
もし、集合を見た目で定義づけようとするなら、さまざまな例外を認めたり、集合の定義をその都度変更しなければいけなくなってしまいます。
一方、集団の思想や目的を定義とするとどうでしょうか。
今回の場合は、「社会の幸福を一番に考えて、物事を判断できる存在集合」です。
こうすれば、集合の定義はいちいち変更されることはありません。
自らを日本人だと心から信じている人は日本人でしょうし、
キリストの教えを信じて、お祈りをするような人は誰でもキリスト教徒でしょう。
もちろん、個人としてみれば何かをきっかけに自分の思想が変わったため、集合の外に移動する場合もあるかもしれませんが、日本人という集合、キリスト教徒という集合にはまったく変化はありません。
つまり、集合を定義するときはその集合の思想や目的で定義する方が安定するのです。
以上の理由から、シビュラを「最大多数の最大幸福のために、人や集団を公平公正に評価できる集合体」であるという定義に少しは納得してもらえたのではないでしょうか。
「なぜ、ドミネーターを向けた人によってシビュラの色が変わるのか」
はい、ようやく本題にもどってきました(^^;)
この段階で、シビュラにドミネーターを向けた人もシビュラの一部になることが納得いただけたという前提で話を進めます!!
ここで、シビュラが集合となった経緯を考えるとそれは、新しい価値観を取り入れてこれまでにない視点から物事を評価するためでした。
ならば、ドミネーターを向けた人を取り入れることでその人の価値観をシビュラに取り入れることができます。
その結果、鹿矛囲は「集合的サイコパス」を認めるべきだという考えを持っていたので、「集合的サイコパス」を認めないような構成員たちの集合は執行されました。
もし、朱ちゃんが、「シビュラは必要ない」という考えをもってドミネーターを向けたら、その考えが反映されて、シビュラという存在を完璧に崩壊させてしまうのかもしれません。
よって、ドミネーターを向けた人によってシビュラの色が変わるのでした!!!
結論
いろいろ言ってきたので、ここに書いたことを整理しようと思います。
まずは、集合は思想や目的で定義するべきものである。
なぜなら、見た目で定義することはできないから。
ならば、シビュラは「最大多数に最大幸福をもたらすために、公平公正な評価のできる存在の集合」と定義するべきである。
なぜなら、これこそが、シビュラの存在理由だから。
だとすると、ドミネーターを持つ人も上のような考えを持っていた場合シビュラの一部となりえる。
ドミネーターを持つ人は正義の代行者足りうるとシビュラに判断されているから。
よって、シビュラに新しい価値観が入ることでシュビラの認識は拡大するため、シビュラの一部となった人によってシュビラの色相は変化する。
ということになります。
お疲れさまでした!!ここまで、読んでくれた人は果たしているのでしょうか?
もし読んでくださった人がいれば、こんな妄想に付き合って下さり、本当にありがとうございます!!!
もともとは、この考察が書きたくて始めた集合的サイコパス考察がここまで長くなるとは自分でも思いませんでした。
3期もいろいろと考察していきますのでよろしくお願いします!!!
よければ、ぜひコメントなどを残していってください。
そうしてくれると、僕が喜びます!
【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性とは」
はい、今回はタイトルにあるように「集合的サイコパス」の核心に迫っていこうと思います。前回の記事でも少し触れましたが、僕の考える集合的サイコパスとは、
大小さまざまある集合の中でより大きな集合の目的の邪魔になる集合を排除するための基準
だと述べました。よくわからんっていう人はぜひ前回の記事をご覧ください!!
でも、なんでそんなめんどくさい定義をするの?
東金美沙子に対して、都合よく定義しただけじゃないの?
などなどいろいろ思うところがあると思います。
というわけで、今回は「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性」とはどんな場合なのかをこの定義に基づいて考察しようと思います。
個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性ってあるの!?
みなさんは、どう思いますか。この言葉は2期の最後で禾生局長が朱ちゃんに集合的サイコパスを認めることで起きる弊害を警告したときのものになります。
最初は、なるほどなぁ。って思っていましたが、よくよく考えると変なんですよね。なぜなら、潜在犯と呼ばれる犯罪を犯す人もしくは犯罪を犯す予定の人はすでにドミネーターによって執行されているし、免罪体質の人はシビュラに取り込まれてしまっているし。
基本的に何かしら悪影響を及ぼす人は集団としてまとまる前にもうすでに執行されてしまっているのですよ。
なぜ、集まることで色相が濁るのか。
逆に言えばなぜ、まとまらなければ色相はきれいなのか。
思想を共有している集団は色相が濁る可能性がある
というわけで、ある思想を持った人が複数人集まる集合は色相が濁る可能性があります。ここでいう思想とは、別にテロとか犯罪を起こそうとかそんな物騒な思想ではありません。(そんな思想を持つ人はそもそも執行されている)
ここでいう思想は、もっとシンプルでとりとめもない考えのことです。
例えば、「働くのめんどくさい」とか「勉強とか意味なくね」とか「消費税あげんじゃねぇ、てか軽減税率入れるくらいなら一律10%でいいよ」とか「民主主義サイコー、もっと一般市民に自由と権利を」とかとか。
まぁ、正しいかどうかは別にして、個人的に思う分には全く問題ないような、そんなよくある考えのことです。
たぶん、これらの思想を持っているだけでは、執行されることもないと思います。
個人の自由ですからね。いくらシュビラでも、そこまで厳しくないでしょ。
ですが、これらの思想を持つ人が集団となると危険な存在となる場合があるんです!
なぜなら、集団となることによってその影響力というのは、一気に大きくなるからです。
例えば、「勉強したくない」と思う分には個人の自由だし、それを友達に愚痴ってもいいでしょうし、授業をさぼっちゃってもまぁいいでしょう。なぜなら、それによって影響を受けるのは自分だけだから。自己責任ってやつですね。
もしかしたら、多少は周りにも影響あるかもしれないけど、一個人の影響力なんてたかが知れてます。
しかし、もし同じ考えを持つ人が10人、20人と増えていって、世の中には、「勉強を無意味ととらえる集団がいる」と認識されるとどうなるでしょう。
そうなると、頭の片隅で「俺も勉強意味ないと思ってたわ」とかいう人は、「自分の考えは正しいんだ」と強く肯定された気持ちになり、さらに広がると「もしかしたら、勉強は意味がないことが正しいんじゃないか」など、それまでは、意識さえしてこなかった人も影響を受け始めます。その影響が広がる速度は個人個人が、勝手に勉強に対して意味がないと主張していた時とは比べ物にならないくらい急速に広がっていきます。
最後には、日本中で反勉強運動が勃発! なんてことになるとこれは大変なことです。
ちょっと言いすぎました... しかし、集団となることでその影響力は個人がバラバラであるよりも一気に大きくなります。思想を共有する集団とはどんなものでも大きな影響を社会に与えてしまうのです。そしてその結果、集団に属さない人も多かれ少なかれ必ずその集団の影響を受けてしまいます。
繰り返しになりますが、僕の考える
「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性」とは、
「個人単位でみると、とりとめもない考えでも、集団となることで社会への影響力が大きくなってしまうために、図らずも社会に悪影響を与えてしまう場合がある」
ということだと思います。
最悪どうなる?
最後に、ちょっとあり得ないけどやばそうな例を考えていきましょう。
上で、「民主主義サイコー」っていう考え方も思想の一つであると書きました。
これははシュビラの存在を否定するようなものです。
今は、サイコパスの世界でこの考え方を支持している人は朱ちゃんくらいしかいません。
しかし、もしこの考えを持つ人がもっと増えて集合となった場合
そして、シビュラに民主主義団体は日本社会にとって邪魔になるという判断を下された場合。民主主義団体はシビュラによって執行されてしまうかもしれません。
つまり、この「集合的サイコパス」は1984年の思考犯罪を思わせるようなそんなやばい可能性も秘めているのではないでしょうか。
考えすぎでしょうか、でも、そもそもあそこは民主主義がなし崩し的に崩壊した世界なので、もし仮にサイコパスの社会の危険性を理解した人が増えたならばその時こそが、社会の変革のときでしょうね。
シビュラが死ぬか、民主主義が完全に滅びるか。
これこそが、2期の一番のテーマだったのではないでしょうか。
【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「集合的サイコパスと東金美沙子が執行されたなぞについて」
今回は、サイコパスの中で最大の謎(と勝手に僕が考えている)「集合的サイコパス」について、それはいったいどのようなもので、どのような問題が起きるのか。を考察してみました。結構自信作なので、ぜひご覧ください!!
作中での「集合的サイコパス」とは
シビュラの説明によると「個人としてはクリアでも、集団としてクリアでない可能性。その疑心暗鬼が、混乱を招き、かつてない魔女狩り社会が訪れ、その結果裁きは大量虐殺へと変貌を遂げるかもしれない。」
本題
どうでしょうか。みなさんわかりますか?
なんとなく、やばそうなのはわかるけど、どのように執行されるのかよくわからないのではないでしょうか。
そして、この言葉の定義道理考えると、
なぜ、東金美沙子は執行されたのか
そもそも「犯罪係数」とは
なぜ魔女狩りが起きるのか
サイコハザードと何が違うのか
なぜシュビラにドミネーターを向けた人によって数値が変わるのか
などなど、いろいろ疑問がわいてきます。
なので、今回はそのうちの一つである「なぜ東金美沙子は執行されたのか」について考えていきたいと思います。
なぜ東金美沙子は執行されたのか
いままで、東金美沙子が執行された理由は大きく分けて二つの解釈がありました。
1)シビュラの集合としての犯罪係数である場合
2)東金美沙子本人の犯罪係数が基準値を超えていた場合
1)シビュラの集合としての犯罪係数である場合
1)の場合、最も物語の趣旨として合っていそうですね。
今までは、免罪体質だったため犯罪係数が図れなかったけど、シビュラの集合としての数値が悪化していたから裁かれた ということです。
しかしそれならば、集合全体の数値であるはずなのになぜ東金美沙子を含め何個か脳を裁くだけでシビュラシステムの犯罪係数が0になるのかという疑問が残ります。
(どうして、彼らが悪影響を与えている存在であることが分かったの? ということです)
また、カムイがドミネーターを向けた時「これがお前の色か、東金美沙子」という
ところにちょっと矛盾しちゃいます。
2)この数値が東金美沙子本人の犯罪係数である場合
2)の場合 免罪体質の犯罪係数は測れないはずなのになぜ測れるのという疑問が生じます。確かに、これも免罪体質を取り込むことでシビュラシステムの犯罪係数を適応できる範囲が広がったからという解釈もできますが、それなら、なぜハン議長などそのほかの構成員の犯罪係数が0であるのかという新たな疑問が生じます。
つまりこの2つの解釈はどこかで矛盾が生じてしまいます。
集合に悪影響を与える集合を排除できる基準のこと
しかし、この数値が東金美沙子がシビュラシステムという集団に与える影響を数値化したものだとしたらどうでしょうか。つまり、免罪体質でありながらシビュラシステムという集合に悪影響を及ぼす存在であると判断されたということです。
シビュラシステムに悪影響を与えるとはどういう意味か。
それは、最大多数に最大幸福を与えるために公平公正に犯罪係数を判定するという
シビュラの目的の妨げになっているということです。
このように考えると、そのあとで複数の脳を排除することでシビュラの犯罪係数が0になったことも同様に彼らは免罪体質でありながら公平公正に犯罪係数を判定するというシビュラという集合のの目的の妨げになっていたからだと考えられます。
つまり、僕の考える「集合的サイコパス」とは集合の定義上ふさわしくない人物群
ようするに集合の目的の邪魔になる構成員たちを裁くことのできるものだと考えます。
ここでは、東金美沙子を含め、その構成員たちはシビュラに悪影響を及ぼす集合だと考えます。
おい!ちょっと待て、それは(1)の解釈と何が違うんだ!と言われれば、確かにそんなに違いはありません。
ただ、シビュラという集合だけでなく、シビュラを構成する人物たちもまたより小さな集合を形成していると都合よく解釈しただけです。(ひどい考察ですね)
ただ、一つ決定的に違うのがあくまで、何人かの個人が排除されたのではなく、シビュラの邪魔をする集合が排除されたと考えているということです。
ちょっと抽象的に言い換えます。
つまり、大小さまざまな集合がある中で、より大きな集合に対して悪影響を及ぼす集合は排除されるのではないでしょうか。
よくわからなくなってきましたね。次に具体例を見て、僕が何が痛いのか理解を試みていきましょういきましょう。(ごめんなさい、わかりずらくて)
具体的にどういうこと??
具体的にどういうことなのかフェミニストを例に考えてみましょう。
フェミニストは、女性が不当に差別されず、女性の権利や機会守り、男性と対等に生きる社会を作ることを目的とした大きな集団です。フェミニストの方々は大変立派なことをされています。
(この具体例では、フェミニストという集団=シビュラシステムと考えてください)
しかし、フェミの中にはかり過激な方もいてそんな方は、何かにつけて女性の人権が侵害されていると主張してはTwitterで炎上する方もいらっしゃいます。
(ここでは、過激な人たち=執行されたシビュラの構成員たちと考えてください)
とはいってもそんな人たちもまた女性の権利のために戦っているのでしょうから、彼女らもまた個人の色相はクリアなはずです。
(つまり、構成員も個人としては、色相はクリアだったということです)
しかし、その結果、過激なフェミニストという集団によって、フェミニストそのものもまた、怖い存在とみなされるようになってしまいました。
(つまり、シビュラの集合的サイコパスが悪化している状態)
こうなってしまったなかで、過激な方々はフェミの真の目的を果たせているのでしょうか。
集合的サイコパスを認めることで、より大きなフェミニストという集団の存在の目的達成の邪魔になっている過激なフェミニストの人たちを裁くことができるのかもしれません。
(繰り返しになりますが、過激な人たちも集合としてその存在が良くなかったということです)
結局「集合的サイコパス」ってなにさ
いろいろ書きましたが、つまりは「集合的サイコパス」とは、大小さまざまある集団がより大きな集団の邪魔になっていないかを判定する基準だと思います。
そして、執行される理由もまた集合であるためということです。
ようは、僕の考えでは、シビュラにとっていらない存在が東金美沙子だけなら、彼女は執行されなかったことになります。(集合ではないから)
まだ、大きすぎる集団のサイコパスは計測できないそうですが、3期の社会ではパワーアップして、日本社会というとてつもなく大きな集団に対して害をなすあらゆる集団は消されてしまうかもしれませんね。
(余談ですが、集合の中の元が一つだけでも数学上では集合とみなしますが、ここでは直感的理解を優先した集合の定義になっています)
PSYCHO-PASS(サイコパス)3期 考察・予想
今回は、PSYCHO-PASS(サイコパス)3期の内容を具体的に予想していきたいと思います。とはいっても3期そのものの情報は、実質PV2とキャラクター設定しか出ていない(10月2日段階)なので、核心に迫ったことは言えないかもしれませんが、これまでのストーリーも踏まえて予想できればなと思います。
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PSYCHO-PASS(サイコパス)作品内容一挙紹介!! 今まで見たことないという人、3期を見る前に振り返りをしたいという人も歓迎!!
いよいよ、10月からPSYCHO-PASS(サイコパス)3期がいよいよ放送になります!!
というわけで、PSYCHO-PASS大好きの私が、今まで見たことがないという人や、一回見たけどもう一回振り返りたいという人向けにPSYCHO-PASSのあらすじと魅力を紹介していきたいと思います。
皆さん、これをきっかけにPSYCHO-PASSの世界にどっぷりとつかりましょう!!
あっ、ネタバレあるので注意です!
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