【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性とは」
はい、今回はタイトルにあるように「集合的サイコパス」の核心に迫っていこうと思います。前回の記事でも少し触れましたが、僕の考える集合的サイコパスとは、
大小さまざまある集合の中でより大きな集合の目的の邪魔になる集合を排除するための基準
だと述べました。よくわからんっていう人はぜひ前回の記事をご覧ください!!
でも、なんでそんなめんどくさい定義をするの?
東金美沙子に対して、都合よく定義しただけじゃないの?
などなどいろいろ思うところがあると思います。
というわけで、今回は「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性」とはどんな場合なのかをこの定義に基づいて考察しようと思います。
個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性ってあるの!?
みなさんは、どう思いますか。この言葉は2期の最後で禾生局長が朱ちゃんに集合的サイコパスを認めることで起きる弊害を警告したときのものになります。
最初は、なるほどなぁ。って思っていましたが、よくよく考えると変なんですよね。なぜなら、潜在犯と呼ばれる犯罪を犯す人もしくは犯罪を犯す予定の人はすでにドミネーターによって執行されているし、免罪体質の人はシビュラに取り込まれてしまっているし。
基本的に何かしら悪影響を及ぼす人は集団としてまとまる前にもうすでに執行されてしまっているのですよ。
なぜ、集まることで色相が濁るのか。
逆に言えばなぜ、まとまらなければ色相はきれいなのか。
思想を共有している集団は色相が濁る可能性がある
というわけで、ある思想を持った人が複数人集まる集合は色相が濁る可能性があります。ここでいう思想とは、別にテロとか犯罪を起こそうとかそんな物騒な思想ではありません。(そんな思想を持つ人はそもそも執行されている)
ここでいう思想は、もっとシンプルでとりとめもない考えのことです。
例えば、「働くのめんどくさい」とか「勉強とか意味なくね」とか「消費税あげんじゃねぇ、てか軽減税率入れるくらいなら一律10%でいいよ」とか「民主主義サイコー、もっと一般市民に自由と権利を」とかとか。
まぁ、正しいかどうかは別にして、個人的に思う分には全く問題ないような、そんなよくある考えのことです。
たぶん、これらの思想を持っているだけでは、執行されることもないと思います。
個人の自由ですからね。いくらシュビラでも、そこまで厳しくないでしょ。
ですが、これらの思想を持つ人が集団となると危険な存在となる場合があるんです!
なぜなら、集団となることによってその影響力というのは、一気に大きくなるからです。
例えば、「勉強したくない」と思う分には個人の自由だし、それを友達に愚痴ってもいいでしょうし、授業をさぼっちゃってもまぁいいでしょう。なぜなら、それによって影響を受けるのは自分だけだから。自己責任ってやつですね。
もしかしたら、多少は周りにも影響あるかもしれないけど、一個人の影響力なんてたかが知れてます。
しかし、もし同じ考えを持つ人が10人、20人と増えていって、世の中には、「勉強を無意味ととらえる集団がいる」と認識されるとどうなるでしょう。
そうなると、頭の片隅で「俺も勉強意味ないと思ってたわ」とかいう人は、「自分の考えは正しいんだ」と強く肯定された気持ちになり、さらに広がると「もしかしたら、勉強は意味がないことが正しいんじゃないか」など、それまでは、意識さえしてこなかった人も影響を受け始めます。その影響が広がる速度は個人個人が、勝手に勉強に対して意味がないと主張していた時とは比べ物にならないくらい急速に広がっていきます。
最後には、日本中で反勉強運動が勃発! なんてことになるとこれは大変なことです。
ちょっと言いすぎました... しかし、集団となることでその影響力は個人がバラバラであるよりも一気に大きくなります。思想を共有する集団とはどんなものでも大きな影響を社会に与えてしまうのです。そしてその結果、集団に属さない人も多かれ少なかれ必ずその集団の影響を受けてしまいます。
繰り返しになりますが、僕の考える
「個人としてはクリアでも、集団としてはクリアではない可能性」とは、
「個人単位でみると、とりとめもない考えでも、集団となることで社会への影響力が大きくなってしまうために、図らずも社会に悪影響を与えてしまう場合がある」
ということだと思います。
最悪どうなる?
最後に、ちょっとあり得ないけどやばそうな例を考えていきましょう。
上で、「民主主義サイコー」っていう考え方も思想の一つであると書きました。
これははシュビラの存在を否定するようなものです。
今は、サイコパスの世界でこの考え方を支持している人は朱ちゃんくらいしかいません。
しかし、もしこの考えを持つ人がもっと増えて集合となった場合
そして、シビュラに民主主義団体は日本社会にとって邪魔になるという判断を下された場合。民主主義団体はシビュラによって執行されてしまうかもしれません。
つまり、この「集合的サイコパス」は1984年の思考犯罪を思わせるようなそんなやばい可能性も秘めているのではないでしょうか。
考えすぎでしょうか、でも、そもそもあそこは民主主義がなし崩し的に崩壊した世界なので、もし仮にサイコパスの社会の危険性を理解した人が増えたならばその時こそが、社会の変革のときでしょうね。
シビュラが死ぬか、民主主義が完全に滅びるか。
これこそが、2期の一番のテーマだったのではないでしょうか。