【PSYCHO-PASS】サイコパス考察「集合的サイコパスによってシビュラが執行されてしまう可能性とは」
今回は、「集合的サイコパス」考察第三弾ということで、2期の中で最も意味が分からなかった 「ドミネーター向ける人によってシビュラの犯罪係数が変わる」という、やや不可思議な現象をについて考察していこうと思います。
最初に言っておきますが、いつも結構ご都合主義な考察ですが、今回は特に手がかりが少ないだけに、いつも以上にひどいです。「へぇ~」と聞き流すように読んでいただけたら幸いです(^^;)
では、さっそく問題の部分を見ていきましょう!
いや~、いつ見てもゾクッとくるようなしびれるシーンですね。
ですが、僕は思いました。
なぜ「ドミネーターを向けた人もまたシビュラの一部になるのか」
なぜ、「本当の裁き手が現れたら、あそこにいる脳が最後の一つになるまで犯罪係数は下がらないのか」
だって、ドミネーターはあくまで機械でしょ!?
犯罪係数を測定するのは、シビュラシステムじゃないの!?
なんで、そんなにころころ犯罪係数が変わっちゃうのさ!!
しかし、今までの記事で、集合的サイコパスとは、「より大きな集合に対して、悪影響を及ぼす集合を排除するための基準」だと考察してきました。
これは、せめて僕の記事の中では貫徹させたい!!
ということで、今回は、集合の定義 を見直そうと思います。
そもそも集合とは
いままで、なんとなく集合、集合と言ってきましたが、集合って何なんでしょう。
集合は「ものの集まり」である。一方で、どんな「集まり」でも集合と呼んでよいわけではない。その「集まり」が集合と呼ばれるためには、対象が「その集まりの元であるかどうかが不確定要素なしに一意に決定できる」ように定義されていなければならない。(Wikipedia より)
というのが、数学上の集合の定義です。
ようは、集合の要素をはっきり定められるような定義が必要なのです。
シビュラの定義とは
では、本題です。
シビュラって何でしょう。
免罪体質の集まりでしょうか。
だとすると、槙島みたいな人が数人集まってしまえばシビュラシステムになってしまいます。それは困る...
サイマティックスキャンによって計測した生体力場から市民の精神状態を科学的に分析し、そこから得られるデータをサイコパスとして数値化したあと、導かれた深層心理から職業適性や欲求実現のための手段などを提供する、包括的生涯福祉支援システム。(Wikiより)
だとすると、サイマティックスキャンを分析できる存在?
それだと、これまでと同じなのでドミネーターを持っている人は関係ありません。
もっと根本的で、シビュラの存在理由そのものとは、
それは、「最大多数に最大幸福をもたらすために、公平公正に人や集団を評価できる集合体」と定義するより他にありません。
あくまで、ドミネーターはサイマティックスキャンを測るための道具に他ならないし、サイマティックスキャンのデータさえも人を判断するための材料に過ぎません!!
評価できる集合体はシビュラなのです!!
いや、まったくもって意味が分からん!! という意見もわかります。
というか、僕が一番そう思っています。
ですが、このように定義する理由が一応は説明できるのです。
もう少しだけ、読み進めてください!!
理由その1:今回の一番の問題点が解決する。
今回のテーマで一番問題になっていたのは、なぜドミネーターを向けた人もシビュラの集合の一部になるのかという点でした。
なので、これを解決するためには、どうしてもシビュラの定義を拡張してその人もまたシビュラの一員であるようにしなければなりませんでした。
なので、このようにシビュラを「社会のために、公平公正に物事を評価できる集合体」と定義することで、ドミネーターを持つ人もシビュラの一員であると考えることができます。
なぜなら、ドミネーターを持つような人は、そもそもシビュラに「正義」のために行動できると認められている人なのですから、免罪体質でなくても多くの一般市民のためを思ってあらゆることを評価できるでしょう。
また、2期のラストで朱ちゃんは禾生局長にシビュラの一員にならないかと誘われています。(まぁ、シビュラも本気で誘ったわけではないでしょうが)
つまり、シビュラの構成員であるために免罪体質であることは必要条件かもしれないが、十分条件ではないかもしれないということです。
なので、シビュラという集合の十分条件として、いかなるときも公平公正に評価ができることと考えるのはあながち間違いではないかもしれません。
だから、それが都合が良すぎないかって言ってるんだよ!!
はい、ということで、理由2を説明したいと思います。
理由その2:あらゆる集合の定義を踏まえた上でシビュラを定義できている
今回シビュラを定義しなおすにあたって、定義が拡張される理由は、絶対に「集合的サイコパス」に求めなければいけない。
とすると、この場合だけに例外的に成立するような定義をすることこそ問題になってしまう。
なので、そもそも集合はどう定義すればいいかを定義します。
もっとも簡単で分かりやすい定義の仕方は、見た目や身体的特徴などで定義することでしょう。
例えば、シビュラでいうなら、脳だけの存在であるとか、並列に脳がユニット化されて処理能力を拡大させた存在とするのがわかりやすいし、確実です。
本来は、入れたくもないドミネーターを向けるような人物を確実に取り除くことができます。
ですが、こんな風に見た目の特徴で、集合が定義できる例は、シビュラくらいです。
もし集合を常に見た目の特徴で定義しようとするとほぼほぼ不可能です。
例えば、日本人ってどういう人の集合でしょうか。
髪が黒くて、顔が平らで身長がそこまで高くないとか?
日本語を母語にしているとか?
いやいや、他にもいるでしょう。大坂なおみさんなんかは、身体的特徴は違えど立派な日本人です。
他にも、キリスト教徒ってどんな人の集合でしょうか。
欧米人の身体的特徴を常に持っているとは限りません。アジア人でもキリスト教徒の人はいます。
ということで、集合を見た目で定義づけることは不可能なのです。
もし、集合を見た目で定義づけようとするなら、さまざまな例外を認めたり、集合の定義をその都度変更しなければいけなくなってしまいます。
一方、集団の思想や目的を定義とするとどうでしょうか。
今回の場合は、「社会の幸福を一番に考えて、物事を判断できる存在集合」です。
こうすれば、集合の定義はいちいち変更されることはありません。
自らを日本人だと心から信じている人は日本人でしょうし、
キリストの教えを信じて、お祈りをするような人は誰でもキリスト教徒でしょう。
もちろん、個人としてみれば何かをきっかけに自分の思想が変わったため、集合の外に移動する場合もあるかもしれませんが、日本人という集合、キリスト教徒という集合にはまったく変化はありません。
つまり、集合を定義するときはその集合の思想や目的で定義する方が安定するのです。
以上の理由から、シビュラを「最大多数の最大幸福のために、人や集団を公平公正に評価できる集合体」であるという定義に少しは納得してもらえたのではないでしょうか。
「なぜ、ドミネーターを向けた人によってシビュラの色が変わるのか」
はい、ようやく本題にもどってきました(^^;)
この段階で、シビュラにドミネーターを向けた人もシビュラの一部になることが納得いただけたという前提で話を進めます!!
ここで、シビュラが集合となった経緯を考えるとそれは、新しい価値観を取り入れてこれまでにない視点から物事を評価するためでした。
ならば、ドミネーターを向けた人を取り入れることでその人の価値観をシビュラに取り入れることができます。
その結果、鹿矛囲は「集合的サイコパス」を認めるべきだという考えを持っていたので、「集合的サイコパス」を認めないような構成員たちの集合は執行されました。
もし、朱ちゃんが、「シビュラは必要ない」という考えをもってドミネーターを向けたら、その考えが反映されて、シビュラという存在を完璧に崩壊させてしまうのかもしれません。
よって、ドミネーターを向けた人によってシビュラの色が変わるのでした!!!
結論
いろいろ言ってきたので、ここに書いたことを整理しようと思います。
まずは、集合は思想や目的で定義するべきものである。
なぜなら、見た目で定義することはできないから。
ならば、シビュラは「最大多数に最大幸福をもたらすために、公平公正な評価のできる存在の集合」と定義するべきである。
なぜなら、これこそが、シビュラの存在理由だから。
だとすると、ドミネーターを持つ人も上のような考えを持っていた場合シビュラの一部となりえる。
ドミネーターを持つ人は正義の代行者足りうるとシビュラに判断されているから。
よって、シビュラに新しい価値観が入ることでシュビラの認識は拡大するため、シビュラの一部となった人によってシュビラの色相は変化する。
ということになります。
お疲れさまでした!!ここまで、読んでくれた人は果たしているのでしょうか?
もし読んでくださった人がいれば、こんな妄想に付き合って下さり、本当にありがとうございます!!!
もともとは、この考察が書きたくて始めた集合的サイコパス考察がここまで長くなるとは自分でも思いませんでした。
3期もいろいろと考察していきますのでよろしくお願いします!!!
よければ、ぜひコメントなどを残していってください。
そうしてくれると、僕が喜びます!